会社を辞める時期を自分の裁量で決められなくて、どこに自由意思があるの?

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2017.8.2DIAMOND ONLINEの記事を読んでの感想。

現役サラリーマンは、自分で自分の生活と人生の時間を簡単にはコントロールできない。しかし、定年になれば話は別だ。自ら裁量を発揮できる定年後は、好きなことに思う存分、取り組める。60歳から、そんなイキイキした時間を謳歌するには、どうすればいいのだろうか。

現役サラリーマンは、自分で自分の生活と人生の時間を簡単にはコントロールできない。しかし、定年になれば話は別だ。自ら裁量を発揮できる定年後は、好きなことに思う存分、取り組める。60歳から、そんなイキイキした時間を謳歌するには、どうすればいいのだろうか。

~中略~

人生には自分で自分のことを簡単にはコントロールできない時期と自ら裁量を発揮できる時期がある。

~中略~

そして私が特に強調したいのは、60歳から74歳の15年間は、家族の扶養義務からも解放されて、他人の介助を受けずに自己の裁量でもって好きなように生きることができる最後で最大のチャンスだということだ。

扶養家族がいる場合、「人生には自分で自分のことを簡単にはコントロールできない時期と自ら裁量を発揮できる時期がある。」というのは、確かにその通りだと思います。家族を路頭に迷わせる訳には行きませんから。

ただ、扶養義務から解放される年齢は人によってそれぞれ異なるので、「自ら裁量を発揮できる時期」を、60歳(という一般的な定年年齢)以降の時期にこだわる必要はないはずです。

やはり定年時点での主体的な意思や姿勢が大切なのだ。早期退職して起業したある先輩は、定年退職日に辞めるか、その一日前に退職するかだけでもその落差は大きいと語っていた。主体的な意思は定年後を考える際の大きなポイントである。

「主体的な意思や姿勢が大切なのだ」とか、「定年退職日に辞めるか、その一日前に退職するかだけでもその落差は大きい」と書いておきながら、

「主体的な意思は定年後を考える際の大きなポイント」ということは、結局、主体的な意思を発揮するのを「定年後」に限定してしまうのでしょうか?

これでは、あくまでも会社が定めた「定年」という大枠を受け入れた上での限定された「意思」に過ぎないように見えます。真に「主体的な意思」であるなら、「定年後」に限定されるというのはおかしいでしょう。

最後のオチがこれ。

定年ではなく隠居を目指したいものだ。就業規則にも「定年」の文言に並べて「隠居」を盛り込んでもいいかもしれない。会社は判定委員会を設置して、60歳になった社員から今後の話を聞いて、「定年」か「隠居」に該当するかをジャッジする。

そして「隠居」と判定されれば、会社は社員に金一封を渡せばいいだろう。なぜならそういう社員は会社により多く貢献してきているはずだからだ。

「金一封」? 会社に判定委員会を設置?

ずっこけてしまいました。結局、雇われ人生の最後の最後まで会社にジャッジしてもらって、どこに自由意思があるというのでしょうか?

隠居は自由意思に基づいた主体的な選択であるのに対して、定年は本人の意思にかかわらず引退する意味合いが強い

本人の自由意思なら、会社が決めた60歳で辞める必要などありません。それは、45歳かもしれないし、70歳かもしれない。人それぞれでしょう。

結局、会社が決めた60歳で辞めるのなら、「隠居」ではなく、単なる「定年」でしかありえないと思ってしまいました。

「自由意思に基づいた主体的な選択」というコトバが空しいですね。

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